都立立川高校同窓会有志の9条の会です。
by tachiko9
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立川高校9条の会ニュースNo.2

なんとしても必要です、


国民投票法案を阻止することが


弁護士 杉井 静子(高校 15期)



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今国会に憲法改正国民投票法案(以下国民投票法案という)が上程され成立させられようとしています。すでに民主党をまきこんで「論点整理」が始まっています。
 自民党は昨年11月に条文になった改憲案つまり「新憲法草案」を発表していますので、改憲の中身は整っているわけです。だから後は改憲案を国民投票にかけるための手続法が必要ということです。しかし国民投票法は単なる手続法ではなく、改憲のための法案でこれを通せば、改憲案の国会発議につながっていく危険性を十分認識する必要があります。
事実、船田元、自民党憲法調査会長は「(国民投票法案の)論点整理を入口に、互いに議論するなかで、境界線はない。法案につながっていく」と述べ、「憲法改正に向け、通常国会で国民投票法を成立させたうえで、政党間協議の入口まで今年後半にはたどり着き、来年、本格的な協議に入りたい」と言っています。
 与党の協議でつくられた国民投票法案骨子案を見ますと、改憲の内容を国民にわからせないようにして、また、国民の「過半数の賛成を必要とする」というハードルを出来るだけ低くして、改憲を実現してしまおうとしている意図が見え見えです。以下「骨子案」を見てみましょう。
 国民投票を提起して実際に投票するまでの期間は30日から90日以内ということです。最悪の場合、30日で投票させるのです。しかもその間国民がさまざまな機会に改憲についてついて議論することが出来にくいしくみを考えています。公務員は勿論、教育者の場合授業で改憲をテーマに話すことも「国民投票運動」として禁止されかねません。また新聞・雑誌等の「虚偽報道の禁止」や「予想投票の公表禁止」があります。さらに新聞・雑誌等の「経営上の特殊な地位を利用して」の報道の規制があるのでマスコミの社説・論説自体が規制されています。
このような規制の下マスコミが「自主規制」して、改憲についての報道がほとんどされない状況の下で、国民は「見ざる聞かざる」状態で、国民投票に臨むことになります。そして「有効投票の過半数」の賛成で改憲は成立することになります。「有効投票の過半数」となると、投票率も低く無効票も多ければ、有権者総数の十数%で改憲が出来てしまうことになるのです。また自民党が出したような「新憲法草案」全体についての賛否を問う「一括投票」ということになると全体的に改憲は賛成という世論が多いなかで危険性は一層強まります。こうした危険性を直視して何としても国民投票法案を阻止するとりくみが今求められています)

 
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 「戦争と平和の綱引き」の


 手を緩めてはならない


石川 清(高4期・元都立高校歴史科教員)


  「立高9条の会」が昨年秋に続く第二回の集いを催されると伺い、賛同者の一人としてささやかな文章を寄せさせていただきます。
 日本国憲法が公布されたのは1946年1月、私が旧制二中の一年生の二学期でしたが、とりわけ戦争放棄と軍隊不保持を謳った第9条は、敗戦までの「国民学校」時代、生来病弱だった幼い私をさいなみ続けた戦争と軍国主義教育からの解放を告げる希望の灯と感じられました。「これでもう戦争で殺されることも、軍隊に入れられていじめられることもなくなった!」という開放感の記憶は、それから60年後の今も私の心に生き生きと甦ります。更に思想・信条・良心の自由を保障した第19条も、高校生になってマルクス主義に近づいた私にとっては、わずか数年前までは「国禁の思想」として弾圧されていたその思想を自由に学習できる法的根拠として力強い支えとなりました。
 ところが、この輝かしい憲法が今、存亡の危機に立たされています。昨今の教育基本法改悪の与党合意、国民投票法案作成の策動などは、本命の憲法改悪の外堀を埋める動きに他なりません。事態はまさに切迫しています。
しかし、現在の日本国民は、敗戦前の天皇制と軍国主義に呪縛された「物言わぬ民草」ではありません。その結成から僅か二年間で全国の津々浦々に四千を越える「9条の会」が続々と生まれていることは、かの安保闘争の際の地域共闘組織がピーク時でも二千余だったことに比べても、静かではあるが深いところから湧き起っている日本国民の平和を希求する強固な意志の現われと考えます。
 かつて自由闊達な校風を誇っていた都立高校は現在、東京都教委の一片の通達によって「日の丸・君が代」強制をはじめとする暴圧にさらされています。思想・信条・良心の自由を保障している憲法と一教育委員会の「通達」とは、一体、法的にどちらが上位に立つものなのでしょうか? 日本国憲法はいつから「国の最高法規」でなくなったのでしょうか? 憲法改悪が未だなされていない現在でさえ、このような無法が罷り通っています。
憲法の明文改悪が行なわれた暁にどのような事態が生ずるか、想像に余りあります。「戦争と平和の綱引きは少しでも手を緩めた方が負ける」とは早乙女勝元氏の言葉です。私たちの母校、立高に「9条の会」が結成されたことは、戦後歴代の先生方と私たち同窓生とが営々と築き上げて来た民主主義教育の稔り豊かな結晶ではないでしょうか。
 私は現在、体調を崩して療養中のため残念ながら集会には参加できませんが、立高関係者の皆様が現在の事態を御明察の上、お一人でも多くこの会に入会され、来たるべき「歴史の綱引き」に参加されることを心から願って、集会へのいわば“紙上参加”とさせていただきたいと存じます。
 
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 私と憲法


子どもの豊かな成長を願って


 川田好博 (高校18期)


 
今年の三月、三十年余り勤めた都立高校の教員生活に終止符を打った。近年の都立高校は、すさまじい嵐に見舞われている。「日の丸・君が代」の強制をはじめとする管理主義の横行は目を覆うばかりである。
入学式・卒業式は、教育委員会の職員や管理職の監視のもとで、まるで戒厳令下のようである。そればかりでなく教育行政機関は都立七生養護学校のように公然と教育内容まで干渉している。 以前「大企業に憲法はない」と言われたことがあるが、都立高校には憲法は存在しないという状況が生み出されつつある。 憲法第十九条【思想及び良心の自由】、第二十三条【学問の自由】は踏みにじられている。
こうした教育行政機関の攻撃は認められないが、その攻撃に十分対応できない教員側の弱点を利用されて来たように思える。後を絶たない体罰の横行、生徒を馬鹿にした態度、旧態依然の授業などなど、教育の信頼を失う事態が往々にして見られた。「中学までは義務教育だから」と高校生に向かって説教する教員もいた。生徒にとって、中学も高校も変わりはない。憲法第二十六条に保障された教育権を行使しているだけである。
子どもの豊かな成長のために、憲法・教育基本法の理念を視点に内部とも外部とも闘ってきた年月であるが、志半ばにしてという感も残っている。憲法・教育基本法を守る闘いはこれからも続けたい。
(山梨革新懇の「私と憲法(第4集)」より転載)
 
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 幼児の戦争記憶

 

木村 富美子 (高16期)



 人は何歳ごろからの記憶があるのだろうか。 私が、3歳以前の記憶がある、と言うと、親などから聞かされたことを、自分自身の記憶として錯覚しているのだ、と疑って信じてくれない人が多いが、私の耳が憶えていることが、確かにあるのだ。
それは、昭和二十年四月、自宅のあった池袋から銀座方面一帯が空襲(あの『君の名は』の真知子と春樹が数寄屋橋で出会う同じ空襲)になった夜の、一瞬の記憶である。焼夷弾の降る中を、母の背に負ぶさって、火の粉を避けるために頭から布団を掛けられ、防火用水の水を浴びながら、火の海の中を逃げたらしいが、そのことは全然憶えていない。安全な場所まで逃げて来たとき、母は初めて、背中の私が身動き一つせず、泣きもしないことに気づいたのだろう。
 母が、「ふみが息をしていないようなの!早く布団を取って確かめて!」と叫んだ。そのときの母の声を、私ははっきり憶えているのだ。父が布団を取り去った瞬間、私が大きな声で泣いたことも。それまで怖くて声も出せなかったのだろう。
「元気だよ。ふみは元気だよ」私は泣きながら、父の声も聞いた。父が水筒から水を飲ませてくれ、私は喉が渇いていたらしく、ゴクゴク飲んだらしいが、そのことはあまり憶えていない。だが、四月の夜に濡れた体で寒かったのか、私は大きなくしゃみをした、その「ハクション」という音も、耳底にあるのだ。
 父の実家の西多摩で疎開生活を始めるまでのことも、始めた後のことも、終戦の日のことも、何も記憶にない。
 しかし、八月の末、学徒出陣していた兄が復員して来た日のことは、鮮明に憶えている。
 私は三歳三ヵ月になっていた。兄は、父母に向かって、最敬礼をし、「ただ今帰りました」と言った。母は、割ぽう着の裾を顔に当てて泣いた。私は、兄がくれた板チョコを、従姉と一緒に食べながら、何で泣くのかと、母の姿を見つめていた。幼い私には、嬉しくても泣くことが、分からなかったのだ。板チョコは、今までに味わったことがない程おいしかったのだろうが、その味の記憶がない。だが今でもチョコレート色の包装の板チョコを見ると、なんだかとても懐かしくなる。
 終戦が十日遅かったら、兄も特攻隊として、飛行機に乗ったかもしれなかったという。訓練を終えて飛び立つ先輩たちの姿と、飛行機を見送ったときのなんとも切なく複雑な気持ちは、六十年たった今も忘れることが出来ない、と兄は言う。
 私は疎開して以来、近くの村役場が正午を知らせるサイレンを聞くたびに、毎日毎日脅えたように泣いたらしい。小学校に入学してからもそれは続いていて、お昼のサイレンが鳴ると、みんなは「弁当だ!」と喜ぶのに、私は反射的に机の下にもぐって、耳を押さえて泣いていた。空襲警報を聞いた記憶は残っていないのに、私の体が、私の鼓膜が、恐怖感と共に憶えていたに違いない。
 記憶の中にはなくても、私の五感の中に残っている恐ろしい体験と、ところどころの鮮明な一瞬の記憶が、どんなことがあっても、二度と戦争をしてはいけない、と叫び続けている.。
 
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by tachiko9 | 2006-05-14 21:48
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